悲観人間のつぶやき

何でも言語化すると、整理ができると聞いたので、好き勝手なことを書きます。

鬱になったら

いいから何も考えずに休め

 

結局それに尽きると思う

 

仕事が、とか 家事が、とか

 

つい色んな用事を見つけてきてしまう鬱の人は多い

 

でも何にもしちゃダメだよ

 

最初は焦るかもしれないけど

 

それが近道なんだから

 

何をした記憶もないくらい何日も過ごして

 

底辺の底辺まで自分を落とせば

 

そのうちじわじわと水が湧くようにやる気が出てきて

 

そのかさが増してきた頃

 

自分のできることを心が選び始める

 

そこまで自分が浮かび上がってきたら

 

あとはもう他人の言葉で左右されずに

 

自分の心だけを信じて動くのがいい

 

 

 

自分の人生を歩くのは自分しかいないのだから

 

周りの誰かのために心を砕いて

 

鬱になったりする必要はない

 

 

 

みんなみんな幸せになる道があればいいのに

よくばりと嘘

誰も彼もに好かれたいと思って居たわけではないのに

 

どこかで、私は誰もを好きになろうとして居たんだなと気がついた

 

傷つけられるような出来事があっても

 

公序良俗に反するような行いを見ても

 

何か事情があるのだろうとか

 

そうじゃなくても、他にいいところがあるだとか

 

それがね、必要な時もあるけど

 

そうじゃないときにまで探しては

 

相手を肯定し、受け入れようとしてしまって

 

誰をも受け入れる必要などなかったのに

 

それは自分の精神のためだと思っていた

 

誰かを憎んだり否定するのは

 

エネルギーのいることだからと

 

 

 

でも考えてみれば

 

体だって不要なものや攻撃的なものを外へ出そうとするのと同じで

 

心だって同じようにするのが自然

 

アレルギーや食べ物の好き嫌いのように

 

どうしても脳が受け付けなくなる時もある

 

愚かだなあ私は

 

 

 

嫌いなものを嫌いと認めることを怠ってきたんだな

 

そういうことも含めて、嘘つきだ

 

そこに他人の共感だって、いらないのに

 

共感が得られないものがそのまま間違いや失敗ではないのに

 

私はカイジなんかよりずっとずっとクズだ

 

欲張りで、嘘つきだ

 

 

 

ともだち

よく知人と友達の境目がわからない、というようなことが

子供の時分にはあった気がする

 

自分はそう思っていても、相手は違うとか

その逆も然り

 

最近はようやく

損得抜きに一緒に居られるかどうか かなあと思い始めた

 

それが、理屈でなく、好きってことなのだろうけど・・・

 

正直、友の言動に腹を立てたり

悲しくなったり

そういったことは、起きる

 

少しの間、距離を持ったりすることもあるだろう

 

それでも、関わるのは、やめない

 

「どうしようもないやつだな」と

お互いに思いながらも

一緒にいるのをやめない

 

見えるものが違ってても

ほんの少し触れ合っている世界だけで

そんな一点だけで繋がってる

 

あるいはそれは、錯覚かもしれなくて

途中でその錯覚に気づいて

離れることも、あるかもしれないけど

 

錯覚だとしても、同じ錯覚をしているなら

それはそれで、十分に繋がってる

 

一緒にいることで

おそらく、似た性質のもの同士ほど

摩擦は大きくなって

どうしようもなく傷ついたりもするけど

だからこそ、痛みを分かることもできる

 

完璧な理解者ではなく

思いの切れ端を稀につかむことがあるだけ

なるべくその切れ端を

たくさんつかみたいだけ

欲しかったゲームと、裏切りについて

今週のお題「ゲームの思い出」

 

ゲームというと、ずっと欲しかったゲームがあって

もうPSが発売されていて

SFCのソフトだからなかなか在庫は見当たらなくて

父はそれを買ってくれると言っていたけど

結局買ってくれなかったのを覚えてる

多分探してすらいないだろう

 

数年後、エミュレータなどで出回ったかと思うけれど

そうやって手にしたいわけではなく

やはりあの時にちゃんと買ってもらいたかったんだろうな

ある種根に持っているのかもしれない

 

裏切られ慣れてくると

人を信じられないのを通り越して

なんでも鵜呑みにしちゃうんだよね

もう疑うのも疲れちゃったし

責める気すらしないんだ

ただひっそり傷ついて

勝手に期待した自分を責めるんだ

 

信頼や信用を裏切られたなんてよくいうけど

大抵はね、期待を裏切られてるだけなんだよ

よく相手を見極めてすらいなかっただろうと

 

父は、その時は、気持ちがあったと思う

今まで見て来た父は、思いやりのない人ではなかったと思う

でも忘れちゃうことだってある

調子よくしてしまうことだってある

それだけだ

 

 

 

人は勝手に期待するんだ

自分が何もしなければ、相手は自分を傷つけないって

 

自分がそうしないように、相手もそうしない

自分がそうするように、相手もそうする

 

それで、その期待や予想が、裏切られて

大いに傷つく

 

どんなことにも、保証はないのに

天災のように降りかかってくるんだよ

いつどこでかもわからない

何かの拍子にこぼれ出たむき出しのナイフが

いきなり切りつけられる

 

それがどんなに理不尽でも

自分を守り癒すには

自分で学ばなければいけない

 

ゲームのように、決まった正解があればいいのに

正確である必要はない

決まった命令を確実にこなすプログラムのように生きる必要なんてない

言い訳をしてもいい

愛すべき不具合だと受け入れていい

いつかはどうしたって壊れてしまうんだよ
生きものだから

はじまりと終わりがあるんだよ

大きな事故や事件が起きなくたって
少しずつ少しずつ壊れていくんだよ

もうだいぶ壊れているかもしれない自分を
ただしく動かすのは、本当に必要なことなの?

結果だけ見て責めないで
自分らしさの中でまっすぐいられたら
それでじゅうぶんなはずだよ

無数の細胞たちがひとつの命を支えてる中で
何人かがうまくやれないこともあるんだって
わたしはわたしたちなんだよ
ひとりでも、ひとりじゃない

みんなが正しく動くなんて、そんななら
不完全な、生き物という形でこの世にいる必要も無いじゃない

脱出ゲーム

最近の私はまたちょっとダメかもしれない

 

ダメじゃない時っていうのは、虚無感のかけらもない時

そういう時は実際のところごく一瞬だけれど

普段はその虚無感を見ないフリできているわけで

 

今はどうにもその虚無感が押し寄せている

この数日はなんとか絞り出す空元気で

周りには明るいと思ってもらえているようだけど

 

思春期の子供みたいに私の心はバラバラだよ

私の心は砂でできているのかな

形があるようでなくて風が吹けばどこそこへと散らばる

 

自分からガソリンの海に突っ込んでいってるみたい

そこに溶けていって透明になっていなくなる

 

肉体が死んで解決することなのかという疑念がなかったら

あっけなく閉じてしまっていたかもしれない

 

宗教にもたれることは私にはできないし

個人にすがるのも悲劇しか見えない

私は私だけのために私の正解を作り上げていかないといけない

 

寄る辺はなく 見えないヒントだけを頼りに

出口を探しにいくこと

まるで脱出ゲームのようだなと思う

これがあなたの助けですよといろんなものが溢れていて

時に悪意、意地悪が仕込まれていたり、

本当に素直な善意があったり

様々な状況を通じて

人は経験を重ね学習していくのかな

 

答えの出し方も答えそのものも

自分だけのもの

 

たくさんの助言があっても

そこから何を得るのかは私次第

 

 

どうか 誰かを愛し守れる人として生きられますように

ちぐはぐでほつれた私のような者が抱くには分不相応なことだろうけれど

 

私の宇宙の中で、本当の私を確かめられたら、

その時は、しっかりその自分を見失わないようにしたい