悲観人間のつぶやき

何でも言語化すると、整理ができると聞いたので、好き勝手なことを書きます。

はたらく

人生はいつ終わるかわからないのに

月に300時間とかはたらいて

好きな人とはその半分も一緒にいられないのかと思うと

虚しい気がしてしまうんだ


身体の元気なうちに

愛する人と世界を見て歩いて

大事に生きていきたいけれど

そういうことができる人はほとんどいないのだろうし

こう望む私の頭がおかしいのだろう

人生をかける夢

幼少期、私は一般的なバカな子供だったとは思うが、なぜかたいそうな夢を持っていた

 

世界中の人が幸せを共有する時間をつくりたい

みたいなことを考えていた

 

よく戦争の本であるとか、ドキュメンタリーなんかを見る機会があったせいか、いじめに遭ってしまったり、悪い大人に騙されたりしたせいかもしれない

 

もともと、おそらく5歳の頃

私にとって他人とは心から謎の存在だった(現在も)

あなたは何なのか、と友人に訊ねたことが何度かある

自分の感情は自分で感じるから、わかる

でも他人の思考をそのまま自分が感じることはできないから

それが、自分以外の存在を信じられないというか、理解できないきっかけになったのかと考えている

 

だから、だと思う

私は自分とおなじ喜びを、他者もまた同じように喜ぶ瞬間が

たまらなく、愛しいのだ

完全に同じとは限らないだろうけれど

自然と一緒に、同じものを見て、喜びや楽しみを感じることが

とても、尊いことだと

 

人はみんなそれぞれ、悲しいほど違う

素材は一緒でも、つくりは千差万別

それぞれが辿る道も、似たものがあったとしても、

全てが同一であることはありえないだろう

そういう人々が、全てわかりあい分かち合うなんて

不可能なことなんだけれど

 

二人で共有できる喜びがあるなら

世界中で共有できる喜びもあっていいのにと

つい考えてしまう

 

その一瞬だけでも平和な気持ちで世界が繋がることができるのなら

そんな技術が、そんな存在があるなら

それを作り出したい、せめて一助になりたいって

 

 

今は大いに挫折を味わっている

そもそも自分が生き続けること自体が

よくわからなくなっているから

 

でも生きながらえることができて、

またエネルギーが溜まったら

その目標のために

向かっていくことになるんだろう

配偶者を愛している人が好き

男女問わず、表題の人が好きだ

その様子を眺めたり聞いたりするのが好きなのだ

 

何気ない仕草にあらわれる気遣いや

言葉の端々に感じる想いがみえると

心がほぐされる

 

信頼しあったり

思い合ったりしている人が

世の中にいるというのを

目の当たりにすると

 

なんだかまだこの世に救いがあるように思える

 

私は単純なのだろう

 

勝手なことだが

末長く思い合っていてほしいし

幸せな間柄であってほしい

 

人は孤独な仕組みでできている と私は思う

だからこそ、不器用でも、不完全でも、

言葉や行動で示されるその愛情が尊いのだろうな

 

たくさんの人がそう幸せであればいい

誠意とか

ほんとにないところにはないのかなあと思いはじめている


こっちがどんなに一生懸命心を尽くしてたって

わかってくれないひとがいるんだから



わたしがばんざいをしたじょうたいでいれば

わたしをばんざいのひとだとみんないいはじめる


枠をかってにつくるんだ


いろんなわたしがいるのに

ばんざいしてないわたしはわたしじゃないみたいにいうの


よくも、わるくも、一度貼ったレッテルを貼りなおすひとはなかなかいないんだよね


いつになってもわたしのきもち

乱気流に乗った風船みたいに

あらぬ場所へとばされてきえるんだ

とどけたいひとにとどかないままなんだ


とてもかなしい

まごころをいくらこめても

受け取ろうともしてもらえない


わたしにまごころがあるなんて

そもそも、知らないんだろうし

知ろうともしないんだろうな


宙ぶらりん

自分よりつらいひとはいっぱいいる
自分よりよわいひとはいっぱいいる

だからといって私の苦しみ悲しみが
霧散して消えるわけではない

いろんな価値あるとされているもののすべて
自分にとってひとしく重要なものだと認識出来ない

私はこわれているのだろうか と

ひとにやさしくしたい
ひとにいやなおもいをさせたくない
でもちゃんとできないの

ちぐはぐなあれこれが
私の形をちゃんと保てないの

だれもみんな完璧になんでもできるわけじゃない
ひとりでできないことをふたりで
ふたりでできないことはもっと、もっとたくさんで
そうしてささえあうはずの美しい星のなか
きっと削り屑ができてしまった
ひつようのないほころびが

おもえば子供の頃の記憶はだれかといてもさびしさ一色
私のソトにあるものは私じゃないから
何をしてもさびしいんだ
すごく孤独だとおもった
でも誰も理解はしてくれなかった
とりあってはくれなかった
当然だ
私だけの孤独なんだから
ソトの人にわかるはずなかったんだ

私にはあるべき意思が欠落してるのだろう
まなばなかったせいだろうか
すべてが空虚で無意味に感じる

みんなどうやって生きてるんだろう
みんななんてえらいんだろう

やさしいひとたちが早くいなくなっちゃうくらいなら
アンパンマンみたいに私のいのちの一部をわけてあげられればいいのだろうに


ほんとうにただしい生き方がわからない


お金を払う時、その物の価値はもちろんだけれど、誰に支払うのかも大切にしたい


祖父母を亡くして長いせいだろうか、老夫婦がやっているお店が良心的な価格や対応をされているのを見ると、なんとも言えない気持ちがこみ上げてくる

情が湧いてしまうのだろうか


生きていくために、何らかの形で働いたり、お金が必要になる

お金だけではなく、ほんの少しでも、心でやり取りしたい


そして善き人々に渡った心が、幸せという形で実を結んでほしい

結婚したすぎる人

結婚願望の強いひとが、相手と長続きしなかったり、相手が見つからないケースを見かける


憶測でものを言うのは良くないかもしれないけど、こういうパターンがある気がする


結婚の方程式の答えを先に決めているのではないかと


自分×X=理想の結婚生活

Xにあてはまる人間を探せ 的な……


個人的には結婚生活に決まった形はないと思う

だけど結婚願望の強い未婚者は、結婚したらこうなる、ああしてもらえる、こうしてあげられる、というビジョンが明確すぎて、その答えにたどり着ける相手をさがしている場合が……


先々を見据えるのは実に大切だけれど、答えなんて相手によって変わっていくもの

まずは身近な誰かや街コンなどで出会った方と一緒にいてみてから考えても良い気がする


答えを急いで出すことより、今歩いている場所や時間を楽しんだらいい

未来を完璧に予想できるわけもないし、だからこそ先へ進む喜びにつながる


いまや結婚ということにこだわりすぎる必要もない、結婚はこうあるべきとか謳う人はもう減っていってる

せいぜい、制度を利用するかどうか、子供を授かり育てたいかどうか、といったことだろう


結婚相手は自分の幸せのための道具ではない

お互いに寄り添い歩ける相手をちゃんと見つけるのがよいのではないだろうか

その地続きに幸せがあるのではないだろうか